「このさびしさをどしたらいいの」ということを延々考えて、人生単位で見てもそれはそれは長い時間を浪費しました。
その中でまず気付いたことは「人はさびしいとおかしくなる」ということでした。
 


僕は、これは強がりでも何でもなく、
理由なくさびしい、という概念が、他の人間と比べると希薄であるようで。
そう言う意味で、大枠で、さびしいという概念を共有できる人ではないようです。
僕にとってさびしいとは、
それそのもの単独で成立できる概念ではなくて、

『~が居なくてさびしい』

とか、

『~が無くなってさびしい』

とか、

そういうさびしいと釣り合いを取る対象物があって初めて表に出てくるもので、
一人で部屋にいて、誰もいないことに、
つまり自分以外の何者か(不特定な誰/何かまたは特定多数の誰/何か)を求めて、
さびしさに悶える…ということがあまりなく。

それは一人遊びと言うことなのかもしれないけれど、
別に家族から見放されて育ったわけでも無し、
友達や恋人がいないわけでも無し、
どうしてそんななのかはよく分からない。



なので、そんな僕にとって、
『さびしい』という概念自体が上手く掴みきれないところはあるのだけど、
それは別に僕の中にさびしさがない、と言うことの証明ではなくて、
例えばあったとしても気付いていない、ということなのかもしれないわけだし。

ま、本気で真性にへいちゃらなんかもしれないけど、
まぁ、孤島や1人だけ残された世界で生きていけるとも思えないし、
読者の全く居ないブログも書けないし、
さびしさは内包されているんだろうな、と。



それはつまり、

 
人それぞれが固有のさびしさを抱えていて、固有の優しさに惹かれて、繋がって、世界というのは出来上がっているようだ。

ということで。


僕が内包しているさびしさは、
世間で喧伝される“さびしさ”とはどうやら少し変わっていて、
僕が感じる固有の優しさというのは、
僕固有のさびしさと、そのとき引かれ合うものが、
僕が落ち込んでるときに出会う『特異点』であって。

そんな点の集合が、結果的に、
自分の生きている今の環境になっているのかもと思う。


逆に言えば、普段生きていて、
違和感を感じる付き合い、ないしは他人がいるけれど、
それはきっと何となく皮膚感覚で、
この人とは、特異点において分かり合えない、
と思うのかもしれない。

価値観の違いかもしれないし、
単に言い回しや語尾かもしれないし、
よくわからんけど。


『特異点』というのは、
50年間通い続けたバーとかとは少し違う。
特異点はオンリーではなくて、
案外、そこらにごろごろしている。

最近はそんなに無いけど、
将来のことで葛藤して落ち込みがちだった20代前半には、
そんな『特異点』は、
僕にとっては主治医みたいなものだった。

普段から仲が良いとか気が合うとかいうわけではないけど、
ふとしたとき、そこにあって別に大丈夫なもの。


今思うとあれは、さびしさ、だったのかも。
理解されないさびしさとか。
届かない想いから来るさびしさとか。

相変わらず、漠然としたさびしさでは無いようだけど、
それでも、僕にとっての『さびしさの運用』が、
『特異点を見つけること』、だったかもしれない。

そういう意味では、僕は、この言葉の意味を共有できる。



大人なんてさびしくて当たり前で、でもそれはただ優しさを指向する力で、だれのせいでもなくて、みじめに感じることもなくて、その力にさからわずに、惹かれるままに、自分のさがしているものを見つければいい。
会いたい人には会いたいといって、いきたいところには素直にとびこんで、泣きたいときには思いっきり泣いて、さびしさでいろんなものとつながっていけばいい。



さびしさ、というのは、欲求なんだと気付いた。


『欲求』という単語がどぎつければ、
何かをしたいという気持ち、でもいい。


何かをしたいと思ったとき、
それを思った時点ではまだ何も手に入っていなくて、
普段であればそれは当然のことで、
それを手に入れようと行動すればいいのだけど、

ふとしたとき、何かのきっかけで、
それを手に入れるということを、
半ば諦め気味に、呆然と見ている自分が居ることがあって、

そうしたときに、
僕にとって『特異点』を欲するようなさびしさが、
顔を覗かせる…かな。



この感情は、運用は出来るけど、制御は出来ない。

『何かのきっかけ』がなんなのかは、
まぁこれからもずっと考えるけど、
僕も毎日変わっているから、
きっときっかけも毎日変わっていて、
死ぬまでわかんないんだと思うけど、


でも、もし仮に、

『特異点』を欲する理由が、
何かをしたい気持ちから起こっているのだとしたら、
出来る/出来ないはともかくとして、
解決策は、非常にシンプル。


それを、すればいいわけで。


僕は、そうは思ってもなかなかそうすることが出来なくて、
しかも、なまじ1人で平気で暮らして行けちゃうから、
切迫した感情を感じることもなく、
後で思い返して、
ああ、あのときそうしていればもっと楽しかったんだな、と、
そのときの感情が薄れた記憶の中で、
そんなことを感じるのだけど、

堪える度合いが少なかろうと、やっぱりそれは後悔だよな。


その、シンプルな解決策に沿って、

それもできれば、時期を明日から、とかすることなく、
今、これを書いているたった今から、
何かをしていけば、ま、いいのかな、と。




きっと、この文章は、そういうことを言われているのだろうと、

ま、勝手な解釈だけど、

思った。





ただし、ひとつ。


ひねくれ者で、人の心をかき乱すのが好きな僕は、
ひとつだけ、異論(みたいなもの)を述べたいと思う。


ただ、彼らはさびしさを正しく運用していただけなんだ。


僕が、シンプルな解決策を常には受け入れられないのは、
1人で平気という面もあるけれど、もう一つ、
呆然としている自分の中に、
理屈では今は説明が出来ないけれども、
それでも何か、クリティカルなものを感じている自分が居るんじゃないか、
そういう、自分を過大評価するというか。

そんな自分が居るからだと思う。


今を、切り抜けて生きるためには、
シンプルな解決策を実行すれば良く、
それがさびしさの“正しい”運用なのかもしれない。

でも、僕は、そのことに不安を覚えもする。

それが結果的に正しいかどうかは誰にも分からないぞ、と。


楽しげに見られているときに、
本当に楽しんでいるかどうかは、
ま、僕の場合だけど、断言できないときもある、と。


シンプルな解決策と、
その場しのぎの運用策は、
比較的似通っていて、

それは慎重に見極めれば間違うはずのないことなんだけど、

自分がテンパってる時には、
盲目的に、
一番近い方に手を伸ばしがちで。



…そんなことを考えてしまう。



言いたいことは、『正しい』なんてない、
というありきたりなことではなくて、

自分の中で正しいことが大事なのだ、と言うこと。

周りから見て正しいかどうかは、
自分の運用として取り込むときには、あんまり関係がない。


ま、一個ずつ試すしかないのが、難点かな。
ただ、そういう妥協はしたくないのでね。
なんとなく。