blogを書く際に気をつけたいと思っていること。(正/誤の判断と良い/悪いの判断の違い) blogを書く際に気をつけたいと思っていること。(正/誤の判断と良い/悪いの判断の違い)
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日々生活していて、
…っていうようなことは凄くたくさんあります。
例えば、今話題のAmazonの件とか、mixiの件とか、プライベートでとか色々と。
そう言うことにぶち当たると、Blogに何かを書きたくなったり、
誰かと喋っているときに話題にしたくなったりしますが、
与太話や愚痴ではなくきちんとした判断が必要だなと思うときには、
個人的に気をつけたいと思っていることがあります。
簡単に言えば、常識的に考えておかしくても、
それを間違っていると断言できるかどうかは分からない、と言うことです。
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どう考えてもそれおかしいだろ…常考。。 | ||||
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…っていうようなことは凄くたくさんあります。
例えば、今話題のAmazonの件とか、mixiの件とか、プライベートでとか色々と。
そう言うことにぶち当たると、Blogに何かを書きたくなったり、
誰かと喋っているときに話題にしたくなったりしますが、
与太話や愚痴ではなくきちんとした判断が必要だなと思うときには、
個人的に気をつけたいと思っていることがあります。
簡単に言えば、常識的に考えておかしくても、
それを間違っていると断言できるかどうかは分からない、と言うことです。
正/誤の判断と良い/悪いの判断の違い
正/誤の判断と良い/悪いの判断の違いは何か?それは一言で言えば、客観/主観の差です。
正/誤の判断というのは、誰もが納得のいく論拠を伴うべきだというのが、
僕の基本的な考え方です。
重要な件について主観的な考えで安易に『間違っている』と発言したくない、と。
一方で、良い/悪いの判断は中途半端な客観性を持つよりも、
主観ベースの方がよいと感じます(場合にも依りますが)。
例えば何かを食べたときにそれが美味しいか不味いかと言う判断には、
他人の感覚や客観的な基準が入り込むべき余地はありません。
“ポジション・トーク”ならともかくとして、つまり表立って何と言うかは別として、
判断の部分では主観の方が遙かに重要です。
この2つの判断基準を取り違えてしまうと、空回りしたり、
無意味な議論を重ねるだけになったり、言葉が通じなかったりします。
例えばmixiの規約変更の件においては、
それが客観的に見て間違っているかどうか(改正すべきと言う言葉に強制力があるかどうか)
という点では、明らかに間違っていないのではないかと。
しかし、ユーザ側の主観から見て、それがNoであればサービスとしてNoです。
どっちにしても同じだろ?と思うかもしれませんが、実際は違います。
客観的に見て間違っているのであれば、行動で改正させることは依り簡単です。
しかし、客観的に見て正しければ、改正させるためにはより多くのエネルギーが必要です。
抗議の数とか。退会者の数とか。
そう言うエネルギーを、抗議の声が正当であると担保してくれるものはない状態で、
集めることになります。
重要なことは自分の意見を正当に正当化することなわけなので、
自分の視点がどこにあるかを意識することは、正当化のための論拠を選ぶことと繋がっていて、
それはそのまま意見の説得力や成功可能性に繋がっています(*1)。
正/誤の判断
正/誤の判断については、個人的には社会的に強制力を持つものに頼ることが多いです。『社会の常識』というのは曖昧であやふやで流動的なものですし、
それよりももっと基準になりうるものの方が良いかと。
日本において、社会的に強制力を持つ構造は、例えば以下のようになっていると思います。
(事案によって変わるので、例えば、ということですが)
- 憲法
- 法律
- 省令
- 行政指導
- 判例
- 契約
- 自主規定
- 慣習
- etc...
- 法律
憲法に関しては残念ながら、日常でそれを論拠に用いても余り説得力を持たない(*2)ので、
一旦横に置いておくとすると、実質的に一番重要なのは法律です。
法律はその殆どの部分において専門知識なので、知らないことが多いんですが、
検索結果と合わせて、該当部分の法律を読むことで少しは分かります。
省令や行政指導、業界の自主規制/慣習あたりになってくると、
外側からは見えづらく、むしろその存在自体が問題だったりもするので、
論拠としては微妙ではありますが、状況によっては有効です。
こうした情報を調べて判断することのメリットは、
こういう情報はそう簡単には変わらず、また何らかの団体(政府含む)の後ろ盾があって、
今後の判断に活かせる部分が大きいことです。
要するに、客観的に見てそのことがどうなのかを判断できると言うことですね。
また、若干詭弁に繋がる可能性もありますが、
必要だから法律がある…的な考えで、
間接的に主観の最大公約数としての判断材料として使うことも出来るかもしれません。
良い/悪いの判断
一方で、良い悪いの判断については自分の感覚が大事です。先ほど書いた食べ物の味に関して言えば、
一般的に美味しいと言われているから美味しいはず…というのは多分気のせいです。
よくいる、啓発ネタに敏感な人たちもそうだと思いますが、
本来感覚的なもののハズなのに、あたかも客観的説得力があると主張されているものありますよね[*3]。
個人的にはそういうものに関しては、鵜呑みにせずに自分の判断を待ちます。
情報が足りなかったら集めるし、分からないなら分からないリストに入れる。
ただ、だからといってすぐに否定はしません。
客観的に見て間違っているかどうかは分からないし、
例えばそのものの正誤よりも心情的な安心が必要な場合もあると思います。
間違っているかどうかは分からないけれども、
僕はやらない、と言うような判断になるでしょう。きっと。
そして、重要なことは…
良い/悪いと言う判断は、他人に強制させることは非常に難しいということです。
まず言語化できない場合が多いし、論拠が主観的なので共有できません。
たまたま感覚が似通っていて、言葉が要らなかった…というのは、
日本では良くあることなんだと思いますが、えーと仕組みとしてはあくまで偶然かと。
だから共有できれば、それほど嬉しいことはありませんが、
仮に共有できなかったとしてもそれで苛ついたり、ガッカリしたりする必要はないと。
むしろそれがデフォルトなので。
実った果実の方ではなくて、その果実を育てることになった、
お互いの主観の方を擦り合わせることが重要だと僕は思います。
まー現実問題、それをすることで理屈っぽいってよく言われるんですけども。
僕としては感覚を知りたくて、そのために言語化せざるを得ないだけで、
決して言語化することに力点を置いてるわけじゃないんですけどね。
blogを書く際に気をつけたいと思っていること。
判断の性格の違いは、日常のコミュニケーションの部分も多く含まれていますが、ではそれがblogではどんなことになっているか?
簡単に言うと、人に影響を与えたいのなら客観的な論拠を持ってこい、ということですね。
何かを検証するときに必要なのは僕がどう思ったかと言うことよりも、
なぜ、その思ったことを正しいと考えるかの方なので。
逆に、感覚的なことに関してはある程度諦めも必要だと。
WEBを通して食べ物の味を伝えられるようには暫くならなさそうだし、
人に影響を与えようと思って言葉でそれを表そうとするくらいなら、
写真と客観的事実(材料とか値段とか)をレポートした方が遙かに良い。
あるツールを人に紹介したい時も、それが如何に便利であるかを繰り返し主張しても、
使ったことがない人にはよく分かりませんね。
(そんなに言うなら…っていうのはあるだろうけどね)
だったら、それがどんな機能を持っていてどんなときにどんな使い方が出来るかを書く方が、
読んだ個々人が自分に当てはめて便利かどうかを追体験できます。
自分の中にある、コレが美味かった!コレが便利だった!とかは、
それが分かる人向け(自分含む)だと割り切った上で、
多くは望まない方が良いかなーとか。
読んだ時も、そこに勝手に解釈を加えて何かを書いても、
元々が主観的で適当な言葉(厳密な言語化から遠いという意味で)なわけなんで、
まー別に面白くないよね、とか。
ま、実際には…
“客観性の要/不要について主観的に判断している”という、
人間の本質的な矛盾があって、書いたとおりに僕が行動してるかと言われると、
それは正直違うんですけれども、
何か他人と接点を持つようなことを書く際には、
それが妥当かどうかをこの辺りで判断しようとしてますよということで。
[*1] まー…日本は良い意味で議論に関しては妥協的なので、
論拠が無くても言ってみたら対応してくれちゃったりしますけどね。
吉野家のつゆだくとかね。
[*2] 憲法が最も重要であることについては疑う余地がないのですが、
何かについて違憲判決が出ても即座に法律が改正されるわけでもなく、
実効性という点であまり…ということなので。
参考
違憲判決の事例
迅速に対応されているものもあるけれども、
判決から法改正まで20年以上かかっている事例や、
公職選挙法のように結局是正できていない事例などもあるようです。
もちろん違憲判決が出ることで、契約は無効であると判断されたり、
省令やその後の判決に影響を与えたりすることはあると思うので、
そのものとして実効性がないということではありません。
が、主に将来の立法に対して影響を与えるという意味合いの方が強くて、
現在の状況に対する論拠として使用しても弱いかなぁ…という印象です。
[*3] トンデモ系のヤツとかにもありますね。
結論からの主観的推測になぜか激しく納得してる人とか。
でもそれは本来、説得力のドーピングです。
馬子にも衣装って感じですかね。
結論と論拠のカップリングをよく見て判断すべきでしょう。









